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執筆者の写真tatamize78

洋服と農


ということで、インスタで昨年からたまに上げている。 

主に自宅の庭。まったくの典型的な「家庭菜園」である。「自然」とか「農業」とか

そういった事が言える場所でではない。不自然な人工的な土地に 生業としてではなく趣味程度の感覚で 自己満足を満たそうとしている。


「お子さんへの食育にもなりますよね!」と 言っていただける事もあったりしたが、そういった事は本当にそうかもしれないけど、はっきりとした理由はなく、ただただ魅かれて 楽しんでいます。


写真は、私の実家の畑で 今年から栽培をお願いしている「藍」。

昨年自宅で栽培して すくもも作ったが、とても少量で今年藍建てはしていない。きっとハンカチ一枚くらいしか染まらないと思う。


「今年こそは!」と収量をあげるべく、現在放置状態の実家の畑で栽培をしている。


実家の畑は、毎年耕運機で耕し化成肥料を入れている。畑にはまかないらしいが、周囲には除草剤もまいている。というか、あたり一面田圃なので、当然農薬を皆さん まいている。

子供のころから農薬を散布するヘリコプターを普通に見ていた。


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何か「農」というものに 清らかで、なにか不純物のない光を感じたのかもしれません。

子供が生まれたころから、食べる物に対して色々と「分別して」きたからかもしれません。


便利社会の恩恵をふんだんに受け、私も「自然農」という農法を知り、目探り(便利社会では手探りではなく目探り または快探りと思う)で、おままごとで始めた家庭菜園です。


思い起こせば、きっかけというか「疑問」を持ったのは今の自宅に越してきて間もなく

庭の雑草を抜いては抜いて 「きれいになった!」と思っていた頃


確かに全部抜いたらきれいさっぱり 何もなくなるのですが、その後雨が降るとガチガチに土が固まり、しまいにコケやイシクラゲが大量に発生して・・・


いくら頑張っても 同じことの繰り返しで「これは、なんか違う」と思ったのがキッカケです。

そこから「風の草刈り」とかを知り、雑草を生やしある程度の丈で刈る事をしり、なるべく自然に近づける事、たとえば1種類の草だけではなく多様性のある状態を保つこと。水の通り道を作る事


そういった事を知り、共感し 自然と生えるシロツメクサやイワダレソウ ヨモギやハコベ ドクダミ、つゆ草、スベリヒユ・・・様々な草が生えてくることに喜び、次第に 「何もない奇麗なだけの庭」 から 「色んなものが生えている豊かな庭」に安心するようになっていました。


そして、いよいよ家庭菜園。


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「自然農」というのは いかなるものか?

僕なんかが言えるものではないと思います。

これに限らず、わざわざ名前が付いているものを 歴史のない者が語るなんてことは まったく憚れます。僕は。


ただ、きっと哲学な部分が大いにあると思います。

哲学として「有る」事が、手に触れ 目に触れ 実感として体感して満足できる

そういった事があり、なにより「食」としていただける。次に繋げられる。

初めから終わりがなく 拡大も縮小も無く 満足して続くこと。

そういった事も感じます。

考えるというよりも 感じる部分にあるのだと思います。


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農業 というのにも色々な形があるのだと思います。

「生業」というには、しっかりとした生産性が無いと

しっかりとした流通がないと なりません。


僕がいくら「自然農」なんて言って家庭菜園をしていても、立派な農家さんが育てた

僕らが「当たり前だ」と思っているような

頼んだら、いつも同じように同じものが出てくるような

そういった「食べ物」が無いと 今のようにノンキには生きていけないと思います。


だから、自分で少しでもやれば 「生業」としてやっている人たちの有難さが分かります。

やり方に関わらず。


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実家の畑の土は、毎年耕され化成肥料がまかれています。


天気が続けばガチガチに固まり、ほぼほぼ草らしい草も生えません。小動物も見かけません。

何十年と続けられてきた畑なのに、表情を感じません。健康を感じません。


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「洋服」というのは、ただの嗜好品でした。 以前の僕にとっては。それは洋服を作るまでは。20代のころは。


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自身の生活というか 価値観が変わったのは、結婚した時よりも、確実に子供が生まれてからです。

「おしゃれ」という事だけで選ぶことが 薄く感じました。

というよりも、外側の自分よりも 内側の自分が安心できるものを探すようになりました。


それは、外側だけの「日常」とか「普段着」とか 「丁寧」とか・・・・そういった事ではなくて、

「今」がまず大事で、それが続くと思えて安心できるもの


そういった事に気持ちが向くようになったのだと思います。


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非常に葛藤しました。コーディネイトとか「今の感じ」とか

そういった目線は「どうでもよいもの」には、けしてならないけれど 目に見える部分ではないけれど、確かに大切にしたい感覚を提案したい。

だけど、うちは洋服屋で そういった事よりもまずは「見た目」。

そして、春夏 秋冬 というサイクルの中での 業界の提案の速さ


「いよいよ秋冬商品が充実してきました!早い人はニットを手に取って・・・」と、まだまだ半袖きている時期に言ったかと思えば、いざ「さむいなぁ」と思った頃にはもうセール。


半年前に展示会。「あれ?これって秋冬?春夏?」 先先先の生産。


提案するのは表面的なものだけか? 洋服を通して共感したいものは 外側の満足だけか?



自身の内側の感覚も整理できないまま、だけれども提案しているもので 確かにある「それ」を表現したい!


とずっと感じていました。


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長男は今年13歳になりました。中学1年生です。


背丈は僕に並び、一丁前です。 


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「農」というにはおこがましい、僕なりの家庭菜園。


当たり前ですが、土は 土の上にはその時必要な 最適な植物の種が芽を出し

根を張り 実をなし 花を咲かせ、次に繋げて枯れて土に還ります。

翌年も同じように 同じ植物が芽を出し・・・だけれども 前の年とは少し土が変わって

小動物や虫も増えたり減ったりしながら 相対的にバランスをとりながら

変わりながら食いながら食われながら、結局は全て降り積もって 分解され吸収され

また繋げて 


そうやっていく事に、そのどこに「不安」があるのかと思うのです。


だけれども、耕してそのそもそこに無い栄養を与えて、それを毎年更新したら

野菜はそれはそれは育つだろうけれど、なんだかそこに「安心」を感じない。


洋服作りにおいても、僕はそうゆう感覚を持っています。


2004年から2020年まで、ただの一つもかけることなく 僕がパターンを引き 多くの物は僕が縫いました。色々と失敗も満足もありながら いびつに続けてきました。


「手仕事だからよい!」と、言いたいのではないです。

そうではなくて、僕が洋服を通して表現したいものは 降り積もった今までの製作物から生まれた この土壌そのものだし

それを不自然じゃなく、生み出したい。


作り手それぞれの「色」とは よく言うけれど、それはコンセプトなんて文章であらわされるものではなくて、にじみ出る独特な「色」。

それは、けして耕されて毎年栄養を注入されたものではなくて、試行錯誤しながらも 楽しんで作ってきたもの達の降り積もった土壌から生まれる色だと思う。



そして、洋服を着ることも同じように いままで自分が選び着てきたものが降り積もって分解され 自分の色となり、土壌が肥えて どんどんと楽しめるようになる。

年を重ねる程に、好き嫌いはなく ただ自分の土壌にその時必要なものに魅かれ取り入れるるようになる。

そういったものを選ぶようになる。


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そんな提案がしたい


何故なら、そこが提案できなければ 洋服なんて「いらない」から。

ミニマリストという人たちが言うように、必要がないものだから。ただ外側が満足するだけなら。


それは「着るものはあるから必要ない」「お金がもったいない」という考えだったり

「消費すること自体が悪・生産すること自体が悪」という考えから来るのかもしれないし、それを否定はしないけれど


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本当に安心できることというのは、全て無かったことのようにリセットすることではなくて、「今」の積み重ねで、生き生きとした土壌を作る事なのではないかと思う。


僕がSNSでよく使う「おしゃれな顔ばかりしていられない」というのは、そういった考えから来る表現で

もっと土臭くというのか・・・楽しんで 安心するような提案をしたいな!


と・・・・やはり言葉では追いつかないけれど 感じてもらえたらと思います。




洋服と農。





 



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